パンフレットの言葉の草稿

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気が付けは10月。公演まであと三週間。毎回この時期は、ホームセンター通いとやる事リストを作成し、なかなかそれが減らない日々です。

 

やる事リストの一つに、パンフレットの言葉を考える事があります。

開演前のBGM選曲や、いわゆる「前説」もそうなんですが、開演まで「待っていただいてるお客様」をなんらか退屈にしない仕掛けは、大事だと思っていて、その一つに「パンフレットの言葉」も含まれると、僕は思います。

なのでそれなりに、「読んで時間を潰せるような」そんな文章にしたいとは思っています。まあ、変更はすると思いますが、今はこんな感じを考えています。

 

 

本日は、天体望遠鏡第16回公演にご来場頂き本当にありがとうございます。

毎回繰り返しているような気がしますが、天体望遠鏡は2001年に北上市で旗揚げした劇団です。勘の言い方はお気づきかもしれませんが、今年で20年目。まあだからどうしたと僕自身思いますが、やはり区切りではあると思います。

 

20年前今でも覚えていますが、今は無き北上市市民会館中ホールで、演劇経験のない僕とその周辺、北上市の劇団ふぉんずさんの絶大なる協力を得て、何とか、形にした、プラモでいうと、プラプラ状態で、何とか立った、みたいな公演を行いました。照明担当の及川君が、終演後、鼻血を出して「終わった」と叫んだの、地下労働から解放されたかの、あの鼻血が、旗揚げ公演の過酷さを象徴しているようでした。

※彼本当は、天体望遠鏡に参加する気はなく、彼女の付き添いで最初の集まりに参加しただけだったのにね。

 

その後、公演準備の過酷さは増すばかり。しばらく二階建ての舞台を組んでいた時期がありますが、搬入が地獄、設営が地獄、本番への体力なし、そんな、本末転倒な「バカ野郎」的な公演を繰り返してみたり。

 

僕たちの公演、舞台セットの歴史は2002年の富士大学演劇部と合同で行った富士大文化祭公演に遡ります。大学の文化祭にもロクに参加した事のない僕は、当時の富士大演劇部と共に教室を一室借り切って、大量の段ボールで壁を作り、270度位の舞台を作りました。その時、深夜1時近くまで教室でワイワイやりながら、舞台を作った経験がめちゃくちゃ楽しくて、まさに「ビューティフルドリーマー」だっちゃ。

あの経験が忘れられず、今も出来るだけセットには力を入れているつもりです。

 

20年で15回の公演と2回の合同公演を行いました。旗揚げした当時は準備していた台本が3つあり、それが形に出来たら、もう何もないと思って始めましたが、25才の青年は45才のおっさんになって、まだ続けています。

 

2000年の初めから2011年まで、僕のテーマはさみしさでした。2011年から2020年までは、でっかい現実、今は、増大する個人でしょうか。

僕らを取り巻く環境は日々、変わっていきますが、やっぱり僕は「今を肯定したい」と思っています。現実がそうでないとすれば、尚更創作でそれを実現したい。それが出来たなら皆様をお呼びし、入場料とお時間を拝借する、理由になるんじゃないか。面倒くさい話をすると、そんなことだけは、20年変わらず思って目指しています。

あとは、最近齢のせいもありまして、集中力が続かず、出来るだけ70分台で終わるお話も目指しています。

 

旗揚げからのメンバーはいよいよ照明の及川君だけとなってしまいました。及川君には生涯天体望遠鏡の行き先を迷わないように照らしてほしいと思います。

 

長くなりました。昨年より続く「コロナ禍」にも関わらず、本日お越しくださいました皆様には、いつにも増して感謝申し上げます。ご来場ありがとうございます。

10年前のパンフに書いた、「これが僕の精一杯」言葉にはしましたが、今はもっと出来たと悔やんでいます。

もう一度言わせて下さい「これが僕の精一杯」です。それでは、どれほどのモノか、

期待値を下げて、ご期待ください。それでは、開演まで今しばらくお待ちください。

またお会いしましょう。

 

作演出川辺健